2『重力ピエロ』伊坂幸太郎

こんな小説が存在していたとは・・・

読み出し一行目から作者のただならぬ文学的才能を感じさせる。
一瞬で伊坂ワールドに送り込まれてしまうのだ。
この小説は今を生きる我々に、小さな希望をもたらしてくれる。

あらすじは
仙台市で起こった連続放火事件。
遺伝子研究の会社で働く主人公・泉水の会社もその被害にあう。
壁に書かれた落書きを消す仕事をする弟・春は、
放火事件の起こる場所に必ずグラフィックアートがあることを発見する。
ガンで入院している父親もこの事件に興味を持ち、3人は
残された情報から犯人探しに奔走する。

〈これ以降はネタバレ内容を含みます〉
読んで行くとまるでgoogleを引いたような印象を受ける。
本編中に引用されるのは、DNA、ネアンデルタール人クロマニョン人
ピカソガンジー、ローランドカーク、ジャンリュックゴダール、マルキス=サド、
メンデル、グラハム=ベル、桃太郎、コノハナノサクヤビメ、ヤエヤマサナエ、バタイユ
エッシャーそしてフィルマーの最終定理。
出ていないのは宇宙学者か妖怪研究者と思わせるほどの、
幅広いジャンルからのエッセンスを抽出して一本の物語を構成している。
この技量だけでもたいしたものだと感心する。この点だけで言うと非常に知的でスタイリッシュであり、悪く言えば
「世界を手あかで染める程、操作して作った物語」という印象を受ける。
しかし作者の望むところはそこではない。あくまでこれらは「弾薬」にすぎない。
綿密に寝られた構成によって撃たれた数多くの「弾薬」は、終盤になってすべて的を射抜き、恐るべき威力を読者にもたらす。
その的とは、骨太で古典的なテーマでもある「子供の親殺し」という問題だ。

すれ違う誰もが振り向く程の美しい容姿を持つ弟・春は、母親が強姦魔に襲われた時に妊娠した子供である。
一方妻の妊娠を知った父は、どうすべきか神に問いかける。帰ってきた答えは「自分で考えろ!」。父は春を世に出す決心をする。
春が生まれて以降は、家族は周りの偏見とトラウマと長く闘って行くのだが、その多くの描写には暗さはみじんも感じられない。
「人間は自分が一番不幸だと思い込む」のが人間社会の当然な中で、春の母の言葉を借りれば「「楽しそうに生きていれば地球の重力なんて関係なくなる」。無尺茶な理屈をつけながらも、明るく必死に闇を乗り越えようとする家族からは、今時珍しい「温かく力強い家庭の光」すら感じる。

その一方で
「ペニスの味わうたった9秒間の絶頂が、子に60年の苦痛を強いる」
というギャスパーノエの引用の通り、己の出生の秘密は、それを考えない日がない位春を長い間深く苦しめる。
一方母を犯した葛城は、以前の罪を反省する訳でもなく同じようなことをして何食わぬ顔で生きている。
連続強姦魔だった彼は「本当に想像力のある人間は、苦しんでいるのは自分ではない。自分は気持ちいいだけ。」と言い放つ。
この男の「悪意」は形こそ違え、「オードゥポンの祈り」に登場する城山に通じるものがある。奴らが生きているだけで周りが不幸になるというどうしようもない負の存在なのだ。

作者は語る。「どんな陳腐な犯罪でも、それによって一度きりの人生がぐらぐらと揺られることに変わりない」と。
春にとって葛城は肉体上の父であり、生涯に渡って殺意を持ってきた相手である。
しかし葛城の否定は自身の存在の否定にもつながる。彼がいなければ、己は生を受けなかった。

先に挙げた入念に張り巡らされた網の目のような伏線は、ここで一気に正体を表す。
春のあまりに酷な、究極の選択肢の板挟みな状況から、作者は「己とは何か?親とは何か?家族とは?何故人間は生きるのか?」という根源的な問いかけを我々読者に投げかけてくる。

そして、春の葛城に放った「赤の他人が口出しすんじゃねえよ」という言葉が
作者からの答えとして、ズーンと読者の胸に刺さる。

本編中で神は「自分で考えろ!」と突き放したが、もがき苦しむ人間に作者は温かい光明をあて、DNAのつながりを超える人間の可能性をちらりと見せてくれた。
まさに「ふわふわと飛ぶピエロに重力なんて関係ないんだから」だ。

同時に小説(物語)が社会に対してもつ無限の可能性をここに見た。
まさにエッシャーのいう「どんな時代でも想像力というのは先人から引き継ぐことじゃなくて、
毎回毎回芸術家が必死になって絞り出さなければいけない。芸術は進化するものじゃない」
である。

【評価 各5点満点】
ストーリー5 人物描写4  文章力4  オリジナリティ5  その他(面白さ!)5 
28/30