22伊坂幸太郎 『あるキング』


自分に子供が生まれて人生の新たな展開に思慮をめぐらせ、
あるきっかけでシェークスピアを読み直して感銘を受け、
よく描く仙台市の新名物・楽天イーグルスを題材にして何か書こうかな・・・
という著者の日常・発想方法が如実に伝わってくる気がする本である。

この作品は作者・伊坂幸太郎の「今後のモノ書きとしての方向性」に
ある警告を発している気がしてならない。
実は前に読んだ『砂漠』で薄々「その危険性」を感じていたのだが、
今回の『あるキング』で不安は確信へと変わった。

そう、別の作家・作品から伊坂自身が影響を受けたモノを、
自分なりの再構築作業をせずにそのまま読者に見せる、
という安直な作りが目につくのである。

例えば『砂漠』では重要なシーンで「サン=テグジュぺリ」の名言的な引用が、
登場人物の境遇を明快にし、物語中の「大学生達」の若さゆえの目的意識・目的地をはっきりさせた反面、
同じ物書きが世に生み出した「力」を安易に借りすぎではないか?という、
まさに微妙な均衡で成立していた。
いうなれば、咲き誇る時期はとうに過ぎた花が、枯れる前にもう一度燃えるように咲いた、そんな感じの小説だったのだ。

対しての本作は、その均衡は完全に崩れている。
例えると、大学生が課題レポートの趣旨・結論を、ネットから探してきてコピーしたような軽薄さや手抜きさを感じ、またある名著をまず読んで、印象的な一行をマーキングし、それを膨らませて物語を書きました、という「建設現場」の裏側が見える気がするのだ。
『重力ピエロ』のように知識の横断が新たな発想・視点を生み出す伊坂の光の部分であるならば、この『あるキング』はまず検索ありきという負の部分を読まされた気がしてならない。

時代の寵児として、今という風を受けながら最先端を走ってきた物書きの、
そんな物書きだからこそ抱えざるを得なかった深い苦悩が顔をのぞかせた気がする。
それこそ、本編中の主人公・「王求」のように・・・