8星島は保護される必要があるのか?

私は裁判に詳しくないので、これから書く内容はあくまで「超私論」である。

第二審・検察側の死刑求刑に対し、高裁の判決は「無期懲役」であった。
刑の宣告は当然今までの判例や、社会的影響力、
時代の世論などを加味した上のものであることは私でも承知している。

今回の判決は簡単にいうと
「彼は反省しているので、死刑まではしなくてもいいんじゃないか?」という話だ。

この言い分に対して私が思うのは、まず亡くなった犠牲者の遺族は、被告に対して反省を望んでいるのではない、という点である。
同時に「罪を償ってほしい」という点とも異なる。(後に述べる)

では「反省」とは何か?「反省」という言葉が持つのは、
これから成長していく人間、社会に貢献していく(社会で生きていく)人間が
同じ過ちを繰り返さないように、己の為に、そして周りの人間の為にする行為であると思っている。
反省することによって、人は成長し、それが結果として仕事や人間関係の上で多くの人々に
幸福をもたらすことも多い。

この被告の行った、残忍非道かつ人の道を大きくはみだした身勝手な行為は、
どんな理由があっても「許されるものではない領域」のものである。
彼は誰から頼まれた訳でもなく、自らの欲望のためだけに犯行を行った訳である。
その為に、何の罪もない未来ある若者が、「ありえないような」人生の結末を迎え、
しかもその亡骸は、「屈辱にまみれる」という言葉では生ぬるい程の
最低最悪の拷問的な扱いを受けたのである。

これは被害者は何の為に親から生を受け、愛され、努力し、恋をし、今まで生きてきたのだろうか?と天に向かって叫びたくなるほどの、被害者の尊厳・全人生を否定する程の犯罪なのである。

このようなことをした人間が、何故人間社会社会で生きていく権利を奪われないのか?

「反省」とは先にも書いたが、未来ある人間に対して効力を発する概念であると思う。
この被告が獄中で「私はひどい罪を犯してしまった・・・」と反省して、改心することが
被害者、そしてその遺族、加えて社会的にも一体何の意味を持つのだろうか?
もっといえば彼に罪を償う機会を与える必要があるのか?

何をどうしても、天地がひっくり返っても、まったく、絶対に、償うことのできない罪を
犯したのだから、その機会を与えられる権利すらないと考えるのが当然ではないだろうか。

私が以上の見解から遺族の立場を想像した場合、彼らが望んでいるのは、「復讐」であると思う。
江戸時代には「親の仇」などの「仇打ち」が認められていたではないか。
現代の社会秩序を守るためにそれを禁止するというのであれば、法が「仇」を討つべきだ。
そこには一切のしがらみを除いて、「復讐」という観点から「死刑」を宣告してほしいと思う。

よく耳にする「復讐からは何も生まれない」、というのは泥沼化した
「対立せざるをえない人々」の話だ。
民族紛争や歴史的な対立、イデオロギーの代理戦争などで起こる「復讐」と、
今回の「復讐」では明らかに問題が異なる。
一個人が身勝手な私欲を発端として起こした、健気に生きる人の尊厳を全否定した行為の贖罪には、
せめて「己の命」位は必要だろう。

自分が書いていることが、ひどく筋違いであることを深く認識しつつも、最高裁に強く期待する。