3英語だからって曲の良さが「Automaitc」な訳ではない。

週に何度か深夜のマクドナルドによく出入りする。
店内を見渡すと、PSPという機械を手に握りしめ「死んだ!」とかいいながら、
テーブルを占拠している大人げないサラリーマン達や、泥酔して頼んだものすら食べることなく項垂れている中年、そして大きな荷物を抱えて鏡片手に某ロックバンドの話を熱く語っている家出少女などがたむろしている。
ここで床に散らかった包み屑や、塩で汚れたテーブル、隣にいる住所不定中年の匂いなどと共に毎度流れてくるのがBGMだ。
マクドナルド専用有線チャンネルなのかどうかは分からないが、最近のJ-POPや洋楽のヒットチャートが恣意的な偏りをみせる選局で四六時中流れている。
先日その曲でふと、意識に引っ掛かったイントロがあった。
よく聞くとそれは宇多田ヒカルのヒット曲「Automatic」であったのだが、すぐに分からなかったのは宇多田本人が歌っているのではなく、歌詞がすべて英語であったからだ。

曲を聞きながら強烈な違和感を覚えた。
原曲は当然、日本でリリースされ同国で流行った曲である。
相当売れたのだから、多くの人が耳にしたことがあるだろう。
それをリミックスするのは充分理解できるのだが、「何故本人ではなく」、そして「英語」なのだろう。

次のことを想像して欲しい。
例えばアメリカのチャート内で、例えば同曲がヒットしたとする。
当然日本語なので聴衆に分かりやすいように、再度英語版でリリースされる可能性はある。
自分達の言葉で歌ってもらうことによって、流れる歌詞の内容を理解し、曲の世界をより堪能することができるからだ。

しかしながら「日本」内で流行った「日本語の曲」を、英語にする理由があるのだろうか?
それこそ、アメリカでヒットしたNe-Yoの「Closer」をアメリカ国内で日本語やフランス語でリリースするようなものである。自分達の知らない言葉で「僕は離れる事が出来ない  彼女の魔法を解けない・・・」と歌われても、聞いているアメリカ人は困惑するだろう。
当然だ。歌っている詩の意味も分からないし、リズムに合わせた軽快な言葉のテンポも変わってくる。加えて原曲と比べると、言葉で伝達する感情表現が著しく弱くなってしまう。
しかもそれが、「よく分からない誰か」が歌っているのであれば聞く気も失せてしまう。
権利に敏感な彼らのことであるから、「ちゃんと英語で歌え」という苦情が殺到するかも知れない。

私がマクドナルドで遭遇したのは、そんな「まずやらない」ことをやってしまった曲だったのだ。
間違いなく、この英語版「automatic」はアメリカを中心とする英語圏市場では発売されない。つまり日本人の為の英語版なのである。

実際聞いてみると、各小節内の字余りが目立つし、テンポも最悪。
当然、言葉が違うので韻なんかは踏める訳がない。
それでも世に出すのであれば、世界市場を意識したものでなければならない。
例えるならば同様の目的で映画の字幕版や吹き替え版はその為に作られている。

一体、この曲の制作者は何の為にこれを作ったのだろう?
「日本人は英語の方がカッコいいと思っている」などという安直な愚論からでないことを強く期待する。