16『剱岳 点の記』 新田次郎

「秘境」と呼ばれる場所が世の中から無くなって久しい現代。
この物語は日露戦争後のナショナリズムが高まりを見せる明治中期、
今や陸軍の管轄となった参謀本部陸地測量部によって国内の地図はほとんど作られたが、富山県に連なる北アルプス立山連峰にはまだ空白箇所があった。
それが弘法大師が草鞋3000足を潰しても登れなかったという伝説も生まれるほど
何人も拒む風体を保ってきた死の山・剣岳である。この
「前人未踏の死の霊峰」を登頂する為に全身全霊で向かった男達の記録小説である。

この物語が素晴らしい理由の一つには、若き測量官・柴崎芳太郎を取り囲む人物の精巧な配置があげられる。

命を預かる指揮官の元で、想像を絶する苦難を共にする測量助手達。(生田信・木山竹吉)
日本陸軍の威信をかけた至上命令の重圧。(玉井大尉ら)
頂上に到達することの叶わない先輩達からの記憶と夢の伝承。(吉田盛作ら)
時にライバルとして、時に共鳴者として互いを競い称え合う山岳会の存在。(小島烏水)
「死の山」剣岳を謳う立山信仰の影を暴き、行者達の剣岳登頂事実を明らかにし、柴崎達の登頂成功を予言する修験者。(玉殿の行者)
前近代の抵抗のごとく長年の不文律を破るモノとして、調査隊の行く手を阻む地元の人間達。(県の土建課)
夫の身の無事を一心に祈り続ける妻。(葉津よ)
そして山の知識・技術だけでなく人間性も真に信頼できる案内人との心の交流・友情。(長次郎)

これらの人物と生き生きとした描写力はもちろんだが、その登場のタイミングやその時に交わされる会話の内容が、読者をグイグイと惹きつける絶妙なストーリーテリングの役割を果たしている。
これはミステリー作品のように、ある証拠物が見つかることにとって展開が広がっていき読者に先の展開の想像をかきたてる類に似ている。
それほどまでに緻密に練られた人物配置は、そうそうあるものではない。

それに加え柴崎(測量隊)が置かれた場所・時間・状況などを「第三者」として説明する時の精密で感情を抑えた的確な筆さばきは、登山に慣れない読者でも容易にこの世界に飛び込むことができる。

すべてにおいて緻密な作りをなしている本作品からは、著者が小説を創る時の設計図の
完成度の高さを窺うことができる。

読み終えて、眼下に広がっていたはずの「剱岳の世界」から現実に引き戻された時
柴崎始めとする調査隊、そしてこれを世に出した作者自身の今はこの世にいないことが不思議に感じられる・・・。
それだけの臨場感があの一冊に込められていたということなのだろう。

是非、一読をお勧めする。

また来月映画化されるとのことなので、そちらも楽しみである。