1まだ散るには早いんじゃありませんか。

2日前のことである。
春迫る暖かな陽気の中、のんびりとホームで電車を待っていた。
夕方前とあって閑散としたホームには平日のこの時間ならではの、のどかな時間が流れていた。

それを打ち破ったのは、「ブ―――――――ン」という電車のクラクションだった。
急ブレーキをかけながらホームに入ってくる電車は、それこそ公害になりそうな爆音を鳴らしていた。そしてホーム中ほどで止まった。

駅内放送からは、緊急を要するような業務連絡を取る駅員の声が慌ただしく流れ
止まった電車の後部方向に駅員が駆け寄る。

私は吸い寄せられるように、後部車両に向かう。
50歳のサラリーマンが「飛び込んだ!」と叫びながら、電車の車両を指差している。
車両の下には、人間の足が見えた。
股引のようなものを履いていて、裸足だった。
よく見ると、ちょうどレールの間に、うずくまった状態で挟まっていた。
男だ。そしてかなりの流血のようだ。
「生きているぞ!」と先ほどのサラリーマンが叫ぶ。

ホームで電車を待っていた人々は、不慮の遅延に遭遇し、いつ電車が動くのか?との心配ばかりしている。
飛び込んだ彼のまさに「上にいる」乗客たちは、
「いつもの遅延か」、という感じで携帯をいじったり、世間話をしている。

5分経ったくらいだろうか。
東京消防局の救助班が到着。手慣れた作業で、電車の下から男は救出された。
どうやら、奇跡的に一命を取り留めているよう。
「誰か見てた人いませんか?」
続いて警察が現場で事情聴取を始める。
今まで人だかりだったホームから、サーッと野次馬が消えていく。
「僕見てました・・・」と20代の青年が落ち着いた様子で警察に声をかける。

その青年の表情を見たときに、それまで自分の中に持っていた違和感を再確認した。
それは私も含め居合わせた誰もが、目の前で起こったことに「驚いていない」のだ。
つまりごくある日常の風景として、この事件を処理しようとしているのである。実際
立ちあった人からすれば、電車を遅らせる迷惑な奴、いつも駅のアナウンスで流れるただの「人身事故」、遅延証明書とらなきゃ、飛び込んだやつ死んだのかな・・・というのが
その場での心境だろう。
だから、誰も悲しまないし、当然これを惨劇ととらえることもない。

もし、これが自分の友人や家族だった場合、当然反応が異なる。
「自殺」という事実をつきつけられた故人の関係者は、それぞれに一生癒えない心の傷を抱えなければならない。

己の命を絶ち、多くの人を深い悲しみと後悔に覆う。
彼は文字通り決死の儀式をここで決行した。
男がどのような心中でこの行為を取ったのかは無論私には分からない。

しかし、世界はいつもと寸分も変わらなく、そして冷たい。

警察が男の遺留品を確認する。
茶色の革靴は、すこし洒落っ気を感じさせるデザイン。
それが綺麗にホームに並んでいた。
その隣には、たたんだトラッドコートがあった。
遺書はない。
警察が出したコートの中の財布は原色の赤紫色をしていた。
男が身につけていたものは、どこか洒落っ気のあるものだったのが印象的だ。
これを身につけるのは20−35歳の男だろう。
警官が財布を開けると、中にはサミットカードとSUICAが見えた。
スーパーのポイントカードが、とたんに男に生活臭を与える。
札は4000円ほど入っていたように見える。

これらから勝手に推測すると、おそらく生活苦からの自殺ではないだろう。
しかもレールの間に挟まったとはいえ、頭部を損傷しなかったのは、
迫りくる電車に恐怖を覚え、本人が頭を抱えたのではないか、と思う。
まだ理性が残っていたのかも知れない。

桜は咲きはじめ、新社会人や新入生などが目にまぶしい今日この頃。
この男も始まりの季節に、あの世への「新生活」を求めていたのかも知れない。