14『風林火山』 井上靖

「勘助は長いこと身動きしないでいた。
天文12年初めて武田家に仕えて以来二十年近い歳月が流れている。その長い歳月を埋めているものは大小の合戦のみであった。合戦以外何もなかった。大小の石がごろごろ転がっているように、合戦が歳月の上に転がっていた。」(本文より)

井上靖が描いた武田家の天才軍師・山本勘助
陣中で果てるまでの彼の生き様は読者をして「うらやましい」としみじみ思わせるだろう。

その容姿のせいだろうか。40を過ぎた頃の勘助は
天涯孤独、猜疑心強く、野心旺盛。他人を見下し、迎合することを嫌う。
己の立身出世のために仕えた武田家だったが、そこで初めて勘助の心を突き動かす大きな人物を出会う。その人物は武田晴信とその妻・由布姫。

26歳年下ながら、いつも静かに自分の意見を尊重する君主・晴信。
譜代家臣団から新参の彼をかばう姿は父親のようでもあり、時に若さにまかせ無謀な行動を起こすあたりは子供のよう。そして一緒に天下を目論む姿は、まさに戦友のよう。
何よりも、当代きっての英雄の資質を充分に備えた男・晴信に勘助は心底魅せられた。
その晴信と勘助が、戦や私生活で互いを信頼し心を通い合わせていく作者の描写は一級である。

もう一人の人物・由布姫。
討つか討たれるか生きるか死ぬかの鬼の世で、
生に対し貪欲で嘘偽りないまっすぐな感情で生きる姫の姿は、
戦国の地獄絵図の中に、健気に咲いた一輪の華麗な花のよう。
その花の何事にも尊い存在は、勘助の心を掴み清め温め生きる目標の一角となしていく。

恋なのか、いはやは愛なのか。
「美しく尊いものを守りたい」という一途で一心な思いは、かつての鬼武者
血の通った人間性を与えることとなる。

井上が描く、戦にのみ己の才能を開花させ散っていく勘助の生きざまは
まさに「純粋軍師」という言葉がふさわしいかも知れない。しかしながら
その純粋ゆえに、己の命よりも大事なものを尊く強く思う彼の心中は、
愚直なほど真っすぐで、驚くほど人間味に溢れ、ただ健気で美しい。



この作品昭和53年に初版。
平成19年に89刷と息の長い作品であるが、一読すればその理由が分かる。