2『アキレスと亀』北野武監督



北野映画の新作は劇場で鑑賞した。

スクリーンの前には、中高年と呼ばれる世代の夫婦が多いのが印象的。

内容は皆さんご存知の通りだが一応なぞると

富豪の家に生まれた真知寿(まちす)は、父がパトロンで当時売れていた画家に描いた絵を褒められた事がきっかけで
アートの道を一途に進んで行く。
世間知らずで、絵を描く事以外何の取り柄もなく、社会性や協調性を著しく失ったまま彼は大人になっていく。
そんな彼の最大の理解者を経て、彼は大好きなアートを何があっても続けて行くのだが・・・という話。

今回の映画、役者がいい。(これを見ているだけでも楽しい。)

久しぶりに演技を見た中尾彬は、まちすの父親役で成金趣味溢れるバカ親父っぽく見える。(実際そうななのか?)

その弟役である大杉蓮は貧農役。彼の話し方、飯の食い方、動きなどは
昔の農家にいた「怖い、ガサツで、短気な家長」をよく演じていた。(素晴らしい)

画商役で、他人をまったく信用しない、他者を食い物にして生きる様がよく出ている伊武雅刀

まちすの妻役の樋口可南子も、表情やセリフの読み方から、どことなく世間連れして、生活感を感じさせない「不思議おばさん」
がにじみ出ていた。

麻生久美子は「アイデン&ティティ」の彼女役と同様の、芸術に対しおそろしく無知であるが故に、まちすの絶対的な理解者である母性愛に満ちあふれた役。
男性から見ると、一見女神様にも見えなくもないが、別の角度から見ると「顔のない女性」にも見える。

少年時代のまちす役の子役は、その目が世間連れした感じがよく出ており、青年時代役の柳ゆうれいも、貧乏青年画家の雰囲気が骨からにじみ出ている気がした。

さらに電撃ネットワークが、持ちネタを披露して会場を笑わせたり、大竹まことがおでん屋の店主をやっていたりと
登場人物で飽きる事がない。もちろん北野映画のプリンス、寺島進も出ている。


作りはタイトルからエンドロールまで丁寧に作ってあり、まちすの半生を追っている為、場面展開も早いので飽きない。
美術も昭和初期中期の町並なんかもよくできているし、撮影も丁寧にしてある。
音楽は何度か似たような旋律が出てくるので、「またか」という少しくどい印象。
また場面転換の黒落ちが多いので、黒落ち前のカットの印象が薄くなってしまう所は残念。
しかし、全体的に見てよく出来た映画である。


さて内容だが、(以降はネタバレになるので、気をつけてお読みください)
まちすのアート活動の描写が、ビートたけし的な発想のギャクに近い企画モノネタ
(白うさぎのコスプレで自転車からインクをたらして白紙上を走る等)連発で描かれ
劇場内は笑いの耐えない話だった。(年配の方がゲラゲラ笑っていた。)
ここまでは良い。

一方、本筋であるテーマ「芸術」を囲む周辺に関する疑問点が強く残った。
まちすは描いた絵を画商に持ち込むが、「時代遅れだ」「今の流行を意識しろ」「オリジナリティがない」などの酷評されて別のコンセプトのアイディアをもらう。
(それも何十年も)それを真に受けて、2人で必死になって、パクリだったりとか、過大解釈をして、作品を作るがまたボツ。この試行錯誤を延々と続けて行くのだ。

その時観ながら考えたのは、彼は「認められたいから絵を描いているのか?」ということ。
もし自分の作った作品を評価して欲しければ、別の画商に持ち込んでもいい筈だが、何十年も同じ所に持ちこむ。
そして言われた通りに自分の作風を何のためらいもなく変えて行く。
そもそも己の作歌性を平気ですべて捨て例えば、バスキアウォーホールなどの絵を必死になってパクって描く画家が果たして
いるのだろうか?それで生まれた作品が公の場で認められる訳がないのは素人の私でも分かる。
だから「自分がこれを書きたい!」というモチベーションがまちすからはまったく感じられない。(実際にその描写もまったくない)

この辺の世界観を北野監督はデフォルメして面白おかしくしすぎた所に、「何故この人は絵を描くのだろう?」という根本的な疑問を持たせてしまっている気がする。
実際、彼の若い頃に書いて否定された作品が、娘との重要なシーンのカフェに飾られた訳でもあり、彼の作品(作家性)すべてが駄目だった訳ではないことは
北野監督自身がこちらに提示している。
それにも関わらず監督は結局、夫婦「芸術狂い」で、世間のことは何も知らない。自身(達の)の作品を客観的に見る「セフルプロデュース能力」がゼロに近く
権威のある人間に、無言で頷く愚かな男という所にまちす達を持って行く。
しかし、すべてを犠牲にして本気で絵を描いている人間にそんな奴はいるのだろうか?

それを土台として、2人の間にいる娘は、まちすが稼ぎがないため、高校生のうちから水商売をして一家を支えている。
夫婦の奇行に嫌気がさし、売春をして生きる彼女にまちすは、「絵の具を買う」金をかりに行く。
売春相手の男は後ろにいるが、声もかけないし、目も合わせない。
この娘がおそらく、売春絡みで命を落とし、霊安室にある時にまちすは、妻から口紅を出させ
それを娘の顔に塗りたくって、白布にそのシルエットを写し取るのだ。

ここで先ほどの疑問は一気に加速して頭の中を一杯にする。
「芸術ってそんなものなのか?」と。
自分が種をまいて生んだ娘に売春をさせて平気でいる男の姿
娘の顔に口紅を塗りたくる男の姿

これは「芸術家だから」、「芸術家の反応」「これが芸術家なんです』としての描写なのか?
私は「いや、それは違うだろ」と北野監督にいいたくなる。

肉親(特に子供)の死の大きさよりも優先順位が上にくる「芸術」など世の中に必要なのか?
この描写は明らかに度を超えた「芸術家幻想」であり、そんなこと出されると
ますます「この人は何故【絵を描いているだろう?】」という疑問が持ち上がり
そこから「まちすという男は人間として破綻している、いや破綻以前に成立していない」人物としてしか見えない。
このシーン以降、まちすもその妻も肉を伴わない「偶像」にしか見えなかった。

以上、北野監督のまちすを通して描く「芸術」が、頭で考えだされた観念的で実りの少ないように見えてしまうのが残念だ。


【採点 各項目5点満点】

脚本3 演出3 役者5 撮影4 美術4 音楽2

計21/30

それでもやっぱり映画が好きです。