107『汽車はふたたび故郷へ(Chantrapas)』(フランス/グルジア 2010)


【スタッフ/キャスト】
脚本・監督:オタール・オタール・イオセリアーニ 『ここに幸あり』『月曜日に乾杯』

出演:ダト・タリエラシュヴィリ 『月曜日に乾杯』
   ビュル・オジエ 『ブルジョワジーの秘かな愉しみ

美術:エマニュエル・ド・ショヴィニ 『やさしい嘘』

【あらすじ】
旧ソ連時代のグルジア。映画監督のニコは政府の検閲にひっかかり自由に作品が作れない日々を送っていた。
そんな折、グルジアを訪れていたフランス大使の計らいで、新天地を求めて国を出る。
しかし、自由の国と思われたフランスでは、商業映画、娯楽映画の生産を求められる。芸術的志向の強いニコは、市場のニーズに合う映画を作ることができず、挫折し再びグルジアに戻る。
故郷の家族には「成功者」として歓迎されたニコだったが、ピクニックに訪れた湖畔で、人魚に出会いそのまま水の中へ。彼は帰らぬ人となる。

【感想】
この作品は「観客に説明する気がない」オーラに満ちあふれている。
何故だろうと思ってこの作品について調べてみたら、「監督の自叙伝」であること、制作時の監督が70歳だったことで納得した。

すべての自叙伝がそうではないのだが、作成者の晩年のこの手の作品には「俺が分かっているんだから、それれでいいじゃないか」という共通した制作姿勢を感じる。
確かに「俺の話」を「俺が作る」のであるのだから、その話の真実性は間違いない。ただ、それを見せられる観客の心情に対する配慮が全くない。
「俺」はその時、その場に居て描きたい事実を見ているから、当時の物語の一部を描くだけで当時のことを思い出すことができる。
しかし、「俺以外の人間」は、「俺の人生」について何も知らないのだから、全体を説明してもらわないと意味が分からない。

書くとキリがないのだが
盗んだ聖人画は映画監督になるための伏線だったのか?
フランスでプロデューサーに気に入られた作品はどんなモノだったのか?
あの人魚、そもそも何?
等々 作者本人しか分からないことが多すぎる。

通常、脚本はそれをはじめて見る第三者に対して事実を客観的に伝えていく作業を必要とする。
さらに、ストーリー展開で重要な部分をクローズアップしたり、マーキンクしたりと観客の心理を
計算しながら物語を進めていく。

この作品にはその姿勢がまったくない。
クローズアップがまったくない、引きの絵を重ね続けるのは監督の「記憶を語る」演出としての意図は感じされるが、流れていく物語には入り込むことができない。

そして中盤以降から唐突に出てくる「人魚」。
これが出てきた時に、これは「トンデモ映画」なのでは?と思ってしまった。
何の脈絡もなく人魚が登場し、しかもそれがラストまで引っ張られるのであるから凄まじい力技である。

公式サイトには「人間讃歌」的なうたい文句があったが、私が見る限りでは
「生きるのは辛い。夢の世界に逃げればいいんじゃない、死んでもいいんじゃない」というメッセージに聞こえた。
これを見て「強く生きよう」「人生を謳歌しよう」と本当に思う人があるのか?

この辺が黒澤明の晩年の作品「影武者」とリンクする。説明不足のプロット段階ではないか感じる脚本。
世の中が「人間讃歌」「魂を揺さぶられる大作」と騒いだ割には、見た人は?と思わせる完成フィルム。
作り手が「俺がそう思っているんだから、それでいいじゃないか」と思って作った感ありありの雰囲気。

「汽車はふたたび故郷へ」は、モノ造りの基本を勉強させてもらえた作品だと思った。


【総評】☆18STARS☆ (各項目5点満点で計30点)

脚本★★

演出★★

役者★★

撮影★★★★

美術★★★★

音楽★★★★

「それでもやっぱり映画が好きです。」